身近で奥深い「言い訳」について少しだけアカデミックに考えてみました

意識改革

こんにちは。

今回は「言い訳」を取り上げます。

私たちは何か予期せぬ出来事が起き、そしてそれが自分にとって都合が悪い場合には「言い訳」をしてしまうときがあります。

また、自分では状況の説明をしているつもりでも聞いている相手に「言い訳」と受け取られてしまうこともあります。

こんな非常に厄介な「言い訳」ですが、今回この「言い訳」をエヌヒロ流に深掘りしてみたいと思います。

人はなぜ「言い訳」をするのか?。そして説明をしているのになぜ「言い訳」と受け取られてしまうのか?。

そんな「言い訳」の不思議に迫ってみたいと思います。

今回の記事で分かること。

  • なぜ言い訳をするのか
  • 説明がなぜ言い訳になるのか
  • 合理化と認知的不協和
  • 言い訳との付き合い方

ちょっとアカデミックに迫ってみます。

言い訳を深掘りする

まずは「言い訳」を辞書で引いてみます。

言い訳
① 自分の言動を正当化するために事情を説明すること。弁解。
② 筋道を立てて物事を説明すること。解説。
③ 過失、失敗などをわびること。謝罪。
④ 言葉を使い分けること。

三省堂 大辞林 第三版

「言い訳」を辞書で引いてみると思ったより色んな意味があります。

ただ私たちの普段使いを考えると①の「自分の言動を正当化するために事情を説明すること」。この意味で使っていることが多いと思います。

良く「そんな言い訳は聞きたくない!」とか「言い訳ばかりするな!」なんてドラマでも実社会でもありますよね。

そんな「言い訳」ですが、本人は「説明」しているつもりでも「言い訳」と受け取られてしまう場合も多いです。

そんなことがあると「言い訳」と「説明」の区別がつかなくなることだってありますよね。

これって実は受け取る側の問題なんです。受け取る側の事情次第で「説明」が「言い訳」にもなってしまうということです。当然その逆もあるでしょう。

ここについては受け取る側の微妙な心理的要因や人となりの問題もあって対応が非常に難しい部分でもあります。

そこが原因で人間関係がうまくいかなくなることって良くあることです。上司や部下、親子関係・・・良くある話ですよね。そして誰もがそのどちらにもなり得るのです。

そうであるなるなら「言い訳」についてもっと多くの人が共通の理解を深めておけば、人と人との関係性もスムーズになっていくのではないでしょうか。「説明」との区別もつきやすくなります。

ということで次項ではこの「言い訳」についてちょっとだけアカデミックに考えてみようと思います。

合理化と認知的不協和

人はなぜ「言い訳」をするのでしょうか?。そこを知ると説明との違いも分かってくるように思います。そこで2つの心理学的側面から「言い訳」を見てみたいと思います。

その2つとは

  • 合理化(防衛機制)
  • 認知的不協和

この2つです。それぞれ詳しく見ていきます。

合理化(防衛機制)

まずは防衛機制の「合理化」です。この合理化、簡単に言うと「言い訳」なんです。

合理化を説明する前に「防衛機制」についてお話しします。防衛機制はこれだけで分厚い本になるほど奥が深いんですが、極々簡単に説明します。

防衛機制
自分にとって不快なことがあったとき、無意識的に自分の自我を守ろうとする心のメカニズムのこと。

私たちは自分にとって受け入れがたい何かが起こったとき、無意識の内に身体が反応してしまうことってありますよね。そのときの心の揺れ動きのことです。

防衛機制には色んな種類があるんですが、今回のテーマ「言い訳」は防衛機制の「合理化」に分類されます。

合理化(防衛機制)を説明します。

合理化(防衛機制)
自分の中で受け入れられない出来事や感情に対して、都合のいい理由をつけて自分を正当化したり他に責任転嫁して自分を納得させようとすること。

例えば、テストで悪い点数をとったします。

それに対して、その事実を受け入れることができないあなたは無意識に合理化を発動させます。

「どうせこんな勉強は社会に出ても何の役にも立たない」。なんてことを言って合理化し自分を納得させようとするのです。誰だって似たような経験がありませんか?。

合理化なんていうと難しく聞こえますが、まさしく「言い訳」のことですよね。

私たちは自分(自分の自我)を守るために無意識のうちに合理化(言い訳)して、自分を納得させることがあるんですね。

自我とは自分らしさのことです。その自我を守るために私たちは無意識のうちに言い訳してしまっているのです。

そう考えると言い訳も何か可愛いような気もしてきませんか?。

認知的不協和

次に認知的不協和を見ていきます。まずは認知的不協和の説明からです。

認知的不協和
自分が考えていることと実際の行動に矛盾があるとき、そこで感じる不安定な感情を解消するため「考えていること(認知)」を変更し実際の行動を正当化すること

認知的不協和を説明するのに良くタバコと健康の話が使われます。

これは、タバコは身体に悪いと分かっているけどタバコを止められない。この時に矛盾する不安定な感情(認知的不協和)が生まれます(タバコは身体に悪い、でもタバコを吸いたい)。

そうすると人は楽な方に流れて「タバコは身体に悪い」という考え(認知)を「長生きしている人の中にもタバコを吸っている人はいる」と変えて喫煙を正当化してしまいます。

これが認知的不協和です。

正当化するという点では合理化と同じですよね。これも「言い訳」なんです。

認知的不協和は自分の中にある複数の認知が協和せずに(不協和)、矛盾を抱えて居心地が悪くなるってことなんです。

そして人はその居心地の悪さを解消するために自分の都合にあった認知に変更してしまうということなんですね。

認知的不協和も合理化と同じで無意識にやってるんです。ストレスを避けるために人は無意識的に色んなことをやるもんなんです。

でもそれってある意味当たり前のことですよね。誰だってそうだし私だってそうです。上司も同僚も、両親だって友人だって・・・。ここを頭に入れておく必要があると私は思います。

合理化も認知的不協和も悪ではない

合理化にしろ認知的不協和にしろストレスをため込まないためにはある意味必要なんです。自分を合理化したり認知を変更するのも悪いことばかりでは決してありません。

大切なことは私たちが生活を送っていく上で合理化や認知的不協和という概念があるということを知っておくことです。

そして自分には合理化する癖や認知を変えてしまう傾向があることを自覚しておく必要があります。

そうすることで一歩立ち止まって考えることができるようになり周囲との無用な軋轢を避けることにもつながるでしょう。

また周囲の人との関りの中でも合理化や認知的不協和を知っていることで、相手の態度(言い訳)を冷静に受け止めることができるようになっていきます。

それは決して簡単なことではありませんが、知っているのと知らないのでは周りとの関係性に大きな違いが生まれるはずです。

人は誰でも「言い訳」をします。それは合理化であり認知的不協和なのかもしれません。

しかしどっちであるにせよ「言い訳」する相手と冷静に関わることで、その後の関係性に大きな違いが出てくることを頭に置いておくべきでしょう。

「言い訳」は誰もがやってしまいます。そうあなたも・・・。

言い訳との付き合い方

「言い訳」を合理化と認知的不協和の側面から見てきました。私が思うのは、言い訳」は否定するよりうまく付き合った方がいいのではないか・・・ということです。

ではどう付き合っていくのか?。

そのヒントを合理化や認知的不協和を説明する際に使われる、イソップ童話「すっぱいブドウ」の話で考えてみたいと思います。

「すっぱいブドウ」はこんな話です。

すっぱいブドウ
ブドウを食べたいキツネが、ブドウを取りたくて飛び上がるけど届かない。とうとうブドウを食べられなかったキツネは「あのブドウはまだすっぱくて美味しくないはずだ」としてブドウを食べれなかった自分を正当化するという話。

認知的不協和理論を提唱した心理学者レオン・フェスティンガー博士は、ブドウは手に入らないからブドウには価値がないと否定することで認知的不協和を解消しているとしました。

キツネは「言い訳」をしてるんですが、見方を変えると自分の中の矛盾を解消していることにもなるわけです。

この話は後段もあります。「甘いレモン」の話です。

甘いレモン
ブドウを食べれなかったキツネが歩いているとレモンを見つけた。するとキツネはこのレモンを「さっきのブドウよりこっちのレモンが甘い」として食べ、レモンを食べた自分を正当化するという話。

これは手に入らなかったブドウよりも、手に入ったレモンの方が甘いという価値を付与することで認知的不協和を解消しているわけです。

ここでもキツネは「言い訳」をしているわけですが、見方を変えると自分を合理化し正当化することで矛盾を解消しています。

価値を否定する解消法と価値を付与する解消法・・・どちらの解消法がいいとか悪いとか、私は関係ないように思います(フェスティンガー博士は答えを出しているようです)。

このように「言い訳」も合理化や認知的不協和の側面から見ると、自分の中の矛盾を解消しようという行為であり全てを否定できるものではないと私は思います。

「言い訳」をする側もされる側も、そこを押さえておく必要があるのではないでしょうか。

もちろん「言い訳」も度が過ぎるとウンザリします。それは良く分かります。しかし「言い訳」を頭から否定してしまうのも危険だと思うのです。

「言い訳」はどちらかというとネガティブに扱われてきたものだと思います。

しかしこれだけストレスフルな社会になった今、少しだけ「言い訳」できる環境があってもいいのではないかと私は思っています。

人間関係が多様化し複雑化していく中で「言い訳」できる隙間が少しだけあることは、人と人との関係性をより良く保つ上でも重要なことではないかと思うのです。

考え方次第で「言い訳」は、そんな隙間を流れる人と人との潤滑油にもなり得るのではないかと思います。

最後に

今回は「言い訳」について考えてきました。

「言い訳」については昔から記事化を考えていて今回思い切って記事にしてみました。でもまだまだ頭の整理がついておらず中途半端な記事になったかもしれません。

これからも「言い訳」については自分の中で深掘りしていくつもりです。そして新たに分かったことや整理がついた部分があればリライトしていきたいと思っています。

「言い訳」は身近で奥深いテーマです。人の心理も絡んできて中々手強いテーマでもあります。しかしだからこそ記事にする価値も大きいと考えます。

今後も身近だけど奥深いテーマに挑戦しブログにアップしていきたいと考えています。

最後まで目を通してもらいありがとうございます。
また次回お会いできることを楽しみにしています。

コメント